【TOPICS Vol.6】長球会(長良高等学校野球部OB会)オフィシャルサイト

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このページは長良高校野球部に関連したエピソード等、OB会員の皆様から寄せられた情報を掲載しています。こんな伝説、あんな事件…、新たな記事の情報をご提供ください。⇒記入ページからどうぞ!(別ウインドウが開きます)
特大バッティングゲージ 31期・32期・33期
今でこそ学校には「天井ネット」なる物がありますが、当時はファールボールがガンガン3塁側のネットを飛び越えました。近隣の民家の瓦被害は数知れず。そこで登場したのが特大ゲージ。杉山先輩(4期)から寄贈いただきました。ホームベース上にかぶせても1・3塁のラインに全くかからない、とてつもなく間口の広いゲージに、帽子のような庇がついていました。一本バッティングも練習試合も、これさえあれば学校外に飛び出ることはありません。しかし、キャッチャーフライはおろか内野フライも飛ばないため、投手陣にとっては辛いゲージでした。
幻の報徳戦 33期
昭和56年の選手権優勝校は、好投手金村(後近鉄など)を擁した兵庫の報徳学園でした。因みに現在の報徳学園の監督である永田氏もこの時のメンバーでした。当時、長良は報徳と定期戦を行っており、この年も6月に宿泊遠征で報徳に出かけました。試合前ノック、ジャンケンも終わり、正に試合が始まるその時、どんよりとした空から急に雨が降り始め結局ノーゲームに。この年は神戸で海洋博覧会(ポートピア)が行われており、急遽見学することに。普通では行けないであろうポートピアに行けることができ、一生の思い出と喜んでいました。それにしても、2ヶ月後にまさかこのチームが全国制覇しようとはつゆ知らず、まったく惜しい雨でした。
鬼コーチ 31期 三鴨勲
平成22年現在、本巣松陽高校監督の三鴨勲氏は、現役最後の夏の大会の岐阜戦で、左腕に亀裂骨折を負ったまま決勝の適時2塁打を放ちました。まさしく本物の猛者でした。岐阜大学に在学中は母校のコーチを務めましたが、夏の炎天下で2時間連続のノックはざら。選手が倒れていてもノックを打ち続け、尻バットの被害者は数知れず。どんな過酷なトレーニングも涼しい顔をして選手より先に終えてしまうので、選手達は何も言えません。ただ心の中で何度も何度も「お願いだから明日は来ないで下さい」と選手達は祈りました。
仏のコーチ 34期 中村俊彦
36期の匿名希望です。私の学年は、主に投手陣が上記の三鴨コーチのイケニエとなり、ゲロを吐くほどのメニューでご指導いただきました。野手はというと、岐阜大学在学中の中村コーチ(34期)が主体となり、ご指導を賜りました。新チームがスタートした夏休みは、公式戦以外の毎日を、通常9時からの練習開始であるにも関わらず、早朝7時から全体練習開始直前までノックをしていただきました。全体練習が始まる頃には、私のユニフォームは真っ黒、私の顔色は真っ青。同期の仲間は恐れをなして逃げていたのではなく、私が上手くなることを願い、敢えて共にノックを受けず、2人きりの死闘を見守ってくれました。私一人のために魂のこもったノックを打ち続け、その後の全体練習でも何事もなかったかのようにノックを打ち続けていただいたタフ過ぎる中村コーチは、“仏のコーチ”以外に言葉が見つかりません。今でも仏と崇めていますが、ビールをお注ぎする際に何故か手の震えが止まりません。
学生監督
昭和53年から昭和61年の9年間は、現在のように教員から監督を選任するには時間の制約が多いため引き受け手がなく、本校野球部OBが大学在学中に母校・長良高校の監督に就いていました。岐阜大学の鈴木賢治氏(第9代監督)、名城大学の松野守康氏(第10代監督)、愛知大学の福井雅一氏(第11代監督)の3名です。この時代は池田高校の蔦監督やPL学園の中村監督といった名将が大勢いた時代でしたが、本校ではこの3氏が、選手に近い若さを武器に本校野球部の発展のためチームの指揮を執っていました。しかし大学生と高校野球の監督の両立は生半可なものではなかっただけに、その苦労は大変なものだったでしょう。現在の大学生のOB諸君、もし貴方が母校の監督を依頼されたら、「はい、喜んで!」と引き受ける“覚悟”はありますか。